島音interview ~岡村 聡士~
By habu-connection On 23 10月, 2012 At 11:56 PM | Categorized As High Light, OKINAWAN MUSIC, 岡村 聡士, 島音interview | With 0 Comments

台湾最大級のロックフェスRock In Taichung Festival」に出演した岡村聡士さん。帰国直後の六本木「島唄楽園」で、三線からMIDIまで操る、彼の変幻自在な音楽スタイルの原点について聞いてみた。

岡村聡ec

岡村 聡士
●プロフィール
1971年生まれ、沖縄県那覇市出身。ドレッドヘアに三線&ギターという独特なビジュアル、
沖縄方言を多用した個性的な楽曲でライブを行う。
「S-1グランプリ♪2010」最優秀賞受賞、TBS「Music Birth+」シルバーエッグ獲得、
藤井フミヤ氏などに楽曲提供、「ジブリんちゅ」等へ三線として参加、多岐にわたって活動中。
●公式Webサイト http://www.undercc.jp/index2.htm

◆インタビュー目次◆

 

 

●Rock in 台中にて----

―台湾は、どうでした?
Rock in Taichung Festivalですか?面白かったですよ、まわりはロックバンドばかりでしたけど。

 

―ほとんどが台湾の方なんですか?
日本からは何組か・・・アメリカとかヨーロッパツアーをやっているようなメタル系のバンドだったりとか。メインステージに出演しているミュージシャンはポップなロックではなくて、結構ゴリゴリでヘビーなロックバンドがほとんどでした(笑)

 

―そのなかで出演された?(笑)
そうそうそう(笑)だから、アコースティックなバンド自体がほとんどない感じで。
けっこう反応が面白くて・・・それと『沖縄』っていうキーワードが、いいみたいです。日本から来たというより「沖縄から来た」っていうMCをしてくれるほどなので。

 

―日本代表というより、沖縄代表という感じでしたか。
「沖縄から来ました!」「おお~!」みたいな(笑)
それに、サポートメンバーのカホンとアコースティックギターの三人でステージに出たんですけど、カホンという楽器自体が向こうの人は見たことがなかったらしくて、ほとんど認知されていない。そういう注目というか三線もそうだったんですけど、カホンも「これもなんだ?」、「ドラムみたいな音が出るぞ!」って注目されましたね(笑)

 

―最近では、台湾でも三線教室が流行っていると聞きましたけど。
台湾のFacebookでも台湾沖縄三線協会っていうグループがあって、そこのリーダーみたいな方とたまに連絡を取ることもあります。その彼が、僕をグループに勝手に加えていた(笑)
そこに通っている子たちが何人か観に来てくれたり、面白かったですね。
爆発的とかそういったものではないですけど。反応としては、良かった感じでした。雨が降っていたにもかかわらず、CDも長蛇の列を作って買って行ってくれたし。


●はじめてのギター----

―岡村さんの音楽の始まりは、ギターからですか。三線は?
ギターからです、三線は全然あとで。親父が古典をやっているので、家で三線は鳴っていました。僕らの世代って、周りを見渡しても三線をやっている奴なんてあまりいなかったんですよね。

 

―そうですよね。岡村さん世代は、沖縄が返還される少し前でしたっけ。
本土復帰前年の生まれなんで、復帰前後のその頃って、これからはポピュラリティーのある芸能・音楽だ!って記憶で、民謡は古い音楽だっていう感覚が子供の僕らにもあったかもしれない。
小学校のときには、学校で方言を使っちゃダメ、使うと「帰りの会」で先生に報告されたりして。小学生時代を過ごした町では、子供の頃、まだ一部は旧暦だったんですね。でも、正月は旧暦ではなく新暦でお祝いしましょうとか、そういう動きはあったので、言葉に関してもその一環であったかもしれないですね。
うちの親父は民謡ではなく古典だったので、三線の音を聴いてはいましたけど、民謡を聴いて育ったわけではなくて。余計に子供ながら興味を示さないというか、何を唄っているか分からないし(笑)

 

―音楽を始めたときは、ポップスというかバンドだったんですか。
当時、おばさんがむかし弾いていたガットギターがおばさん家にあって、ネックが反り返っていたものなんですけど。いま思えば、すごいギターだった。反り方が(笑)
でも僕にとって、初めてのギターだった。それで、それを貰ってコードブックというか歌本を買ってきて、テレビで流れてくるような音楽を弾きはじめて、コードを覚えて。
一番最初に弾いたのは、長渕剛でしたね。
中学一年の担任がギターを弾く人だったんですけど。そのころ金八先生の影響で、入学式後でクラスに集まったとき担任が、いきなりギターを出してきて「みんなで歌おうぜ~!」みたいな感じだった(笑)

遠足のときに「俺も少しだけギター弾ける」って言ったら、「おお!じゃぁこれからは、ホームルームでお前が弾け」ということになって弾いてみたら、ギターが弾きやすい!
今まではメチャメチャ反り返っていたギターが当たり前だったから、それを弾くようになって、だんだんエレキギターに代わるようになったんです。
エレキギターを買ってもらって、中学2年ぐらいにバンドを始めたのかな。コピーしたり、高校に入ってオリジナルをやり始めたりとか。

 

―そのときには、標準語で?
もちろん、もちろん。そのときも、ジャンルを絞らずに色んなのをやっていたから。

―高校を卒業してから、上京されたんですか。
沖縄で一年浪人してから、東京の大学に進学で20歳のときに上京しました。

 

―そこでもバンド活動を?
そこでバンドサークルみたいなものに入って、レゲエとか本当に色んなのをやりましたね。

 

―岡村さんの音楽を聴いていると、色んなエッセンスが散りばめられていますね。
それは多分、大学時代のおかげなんだろうなぁという気がしますね。
とにかく沖縄から出てきたとき、東京の人の情報処理能力のすごさに結構びっくりしたんですよ。その頃はまだインターネットもなかったので、僕らの情報としては雑誌かテレビ、ラジオと言っても東京の番組がそのまま沖縄でやっているわけではないし。沖縄では沖縄の独特な番組をやっていたから、やっぱり音楽の情報は限られていたんです。

それで東京に出てきたら、こっちの人たちは多岐にわたるジャンル、その人たちがどのバンドにいたとかの歴史とか知っていたりするのに驚いて。上京して一年目は、それに追いつこうというか・・・それに頑張りましたね(笑)

 

―嬉しいカルチャーショックだったということでしょうか。
そうです。武道館だったり、代々木やNHKホールだったり、外国のミュージシャンが来ると観に行けるじゃないですか。バイト代は、ほとんどそういうのに使っていましたね。
今でもあるお茶の水のジャニスの姉妹店が池袋にあったんですけど。大学が池袋だったので、そこの姉妹店でマニアックな洋楽も含めて色々おいてあったから、しょっちゅう借りて。CDはそんなに買えないし、そういうところで借りたり買ったり。

 

 

 

●卒業できる予定だったのに----

―岡村さんのギターってテクニカルで、コードが細かいというか、7thコードとかテンションが多く入っていますよね。一番影響を受けたアーティストは誰なんでしょうか。
コードは細かいかもしれないですね。テンションも多いかも・・・そんなところまで、聴いてくれているんですか。
一番影響を受けたのは誰?とよく訊かれるんですけど、なかなか答えられないんですよね。スティービー・ワンダーとかもすごく好きで、わりと黒人の音楽が好きだったりしますね。もちろん、ボブ・マーリーとかも大好きだし、レニー・クラビッツとかはジャストタイムで聴いていて、武道館にも行きました。

 

―ドレッドヘアーは、その影響でしょうか。そこから、ずっとドレッドヘアーで?
初めてのドレッドは、大学2年のときでした。それは3・4ヶ月でやめましたね(笑)
今よりも手入れが面倒で、編んでいるだけだからほどけるし、絡まるし。一昨年ぐらいから、いまのドレッドに復活しました。なんか三線やって、ドレッドだったら面白いかなという発想で(笑)

 

―面白いですね(笑)・・・そういえば、オリジナルを作り始めたのは高校生からということでしたけど、いつから音楽で食べていきたいと考えたんですか。
高校生のときに、少し考えましたね。バンドコンテストの県大会で賞をもらったりして、大学には行かないで音楽をやる、と思ってた頃もあったんですけど。コンテストで一緒になった沖縄の大学生に、たまたま道で出会って「バンド練習に遊びに来いよ」と言ってくれて。彼らが借りていたスタジオに遊びにいったとき、色んな話をしたんです。
そしたら、「大学は行った方がいいよ。どこも行くとこがなかったら、うちの大学にくればいいさー。大学に行ったら音楽が広がるよ。色んなジャンルがあって、色んな人間関係がある。家が許す環境であれば、絶対そうしたほうがいい」って。それから考えて、それがいいんじゃないのかって。

 

―その言葉があって大学に進学したんですね。大学では、バンドをやってオリジナル曲を作って?
実は、東京でオリジナル曲をやり始めたのは大学4年の後半のときでした。それまでは、ほとんどコピーバンドで学内でしかやっていなくて、たまに外のライブハウスでやることもあったんですけど。
大学3年の就職活動が始まるころに僕は髪も切らず(笑)就職活動と称したオーディションを受けてました(笑)バンドの方でも、声をかけてくれた音楽事務所の方に「うちのオーディションを受けてみないか」って、いくつか受けたりしても最終的にはどこも形になるものはなくって・・・そうこうしているうちに、卒業できるはずの大学が卒業できなくて(笑)

 

―卒業できる予定だったのに(笑)
そう、一教科だけ落とした(笑)
やばい!と思って、でも、一教科のためだけに一年間通うことになるんですけど(笑)
そのときによくバイトをしていた仲間が、「出版社つながりでポニーキャニオンのプロモーターが、2ヶ月の短期アルバイトを探しているらしいよ。お前、ほとんど大学行かなくていいんだろ?やらない?」って話があって引き受けて。

2ヶ月経ったら、雇ってくれた人の上司の課長が「俺の下で働け」って言ってくれて、合計2年弱を働いてましたね。その課長が担当していたのが、藤井フミヤさんだったんです。
その流れもあって、ライブを見に来たディレクターとかが「デモテープとか録ったら?」という話になって。それで新曲を持っていったら、フミヤさんのアルバムに収録されたんですよ。世の中、何がどう転ぶか分からない(笑)
もし留年しなかったら、そんなことにならなかったかもしれないし。

 

―留年は、運命だったのかもしれないですね(笑)
そうかもしれないです(笑)そのあと藤井尚之さんの詩を書いたり、藤井フミヤさんがプロデュースした子に曲を提供したり。だけど、敢えて事務所に入らず自由にやりたいみたいな感じだったので、バイトも辞めて・・・自由にやるって言ったって、そう簡単に仕事があるわけないじゃないですか。ツテもないし。
コンペみたいなのに出しても、全然とおらないし。自分のバンドも活動停止にしていたので、自分が何を作りたくて、どんな方向でいきたいのか分からなくなってきちゃって。

それで生活の中心がバイトになって、そのバイトでちょっと体を壊したのもあって、契約社員になってサラリーマンになってという時期もありました。
そういう時期でも曲を作って、コンペとかに参加したりはしているんですけど、自分の中では音楽を続けていても表には全く出ないので・・・やっぱり表に出ないってことは、リアクションもないわけだし、自分の中でどんどんワケが分からなくなってしまった。それが10年近く続いたんですよね。

●アコースティックライブの始まり----

―それが20代の半ばから30代半ばですね。その間、サラリーマンをしつつ音楽を並行してやっていたんですか。
そう、甘えていたんですよね(笑)なんか出来るだろ、みたいな。
でもある日、親父が定年退職するちょっと前に今まで一回もなかった電話が掛かってきて、「そろそろ沖縄に戻ってくる気はないか」と。親父自身が定年退職する前ならどこかしらの会社を世話できるっていうのがあったのかもしれない。そんなに音楽をやっているようには見えないし、だからもう戻ってくればっていうのがすごくショックだったし、そんな心配をさせてしまって申し訳なかった。

そこから一年ぐらい考えて、勤めてた会社をあてもなく辞めて・・・。
自分が音楽を作るというより、着メロとかカラオケのMDI制作の仕事を請け負いで始めて、少なからず音楽業界の端っこにいる気分(笑)でも本格的に戻る勇気も術もないし、まだそのときは、ライブで自分がもう一度歌うという気持ちがなかった。ウダウダしていたときに、ある曲ができて、これならアコースティックのライブで歌ってもいいんじゃないかって。少しずつでもいいから、ライブをやってみようかなと。

 

―そのある曲は、現在でも歌われるんですか。何ていう曲名です?
曲名は「月に願いを」で、たまに歌っていますよ。

 

―それが、きっかけに?
きっかけですね。いわゆるアコースティックなライブを“四谷天窓”っていうライブハウスで出始めて、井上ともやすさんがやっている「わらぶー」っていうユニットとかがいて・・・井上ともやすさんが企画した、沖縄系のアーティストをブッキングして対バンでやるのを誘ってもらったり。そういうのが増えたから、これは三線もやっておいたほうがいいんじゃないの、というスケベ心が生まれた(笑)
三線を全面にだすのは、もうちょっとあとの“S-1グランプリ♪2008”ぐらいからで、その頃から沖縄居酒屋でライブを始めました。まともに三線に向き合ったのは、それからですね。まだ5年足らずぐらいです(笑)

 

―もっと以前から、三線を弾かれているのかと思っていました。
いや、もちろんいたずらに弾いたりはしていたし、藤井フミヤさんに提供した楽曲はデモテープの段階では三線が入っていたんですよ。民謡がほとんど弾けないぐらいで・・・
ただ曲に取り入れたりするのは、実は昔からやっていましたね。

 

―歌に方言を使うようになったのは、いつからでしょうか。
ライブ当初から歌っている“ひーじーふーじー”って曲があるんですけど。この曲はたまたま出来て、言っていることが分からなくてもいいやと思って歌ったら、反応がすごく良かったんですよ。これは面白いなー、と思って。
だから、アコースティックの曲でも方言使ってみようとか、乱暴なウチナーヤマトグチと言われる僕ら世代の方言、ちゃんとした方言ではないけれども使ってみようというアプローチはしてて。

ただ、ちょっと今までとは違うリズムでのっけてみよう、という感じで始めたので。そのうち、沖縄方言の面白い言葉をキーワードにするのが僕の中で流行って・・“マルバイ”とか(笑)誰も今まで歌で使ったことがないような。
面白いなーと思って、そんなふうに作ってますけどね。

 

 

―岡村さんの曲風は、BEGINさん、つまりオモトタケオの影響を感じませんよね。
あー・・でも、そういうふうに捉えてもらえるとすごく面白いですね。
確かに、そうかもしれないです。オモトタケオにしても、1998年でしたっけ?その頃、聴いていないんです。
リアルタイムで聴いていなくて、沖縄に帰って友人の結婚式の2次会か3次会で、三線なんて触ったことがなかったような奴が結婚式の余興で練習して、“オジー自慢のオリオンビール”をやったんですよ。それを聴いて、「なんじゃこりゃ!面白いな」と思ったんです。
その頃は、あまり沖縄にも帰ってなかったんで・・・帰る気力がなかったんですよね(笑)帰ったら、なんか負けてしまいそうで(笑)

それでたまーに帰ってみたら、“オジー自慢のオリオンビール”を知って衝撃で。本当すごいな、って三線を弾かない僕ら世代でもこうやって弾けるんだと思いました。だんだんその頃から、沖縄の人たちの意識も変わってきましたよね。
BEGINさんの島唄系の曲は、沖縄居酒屋でライブを始めたぐらいに聞き始めたっていうのが正直なところです。

 

 

 

●伝えたいものとこれから----

―岡村さんは打ち込みをしているので、先にリズムトラックから曲を作るってこともありますか。三線のフレーズが先であれば、のせないリズムかなと感じるんですが。
ああ、そういうのはあります。逆に“どぅまんぐぃばい”みたいなのは、三線一本でいきなりつるんと作ってしまったというか。
そういうアプローチもしてみると、後から「どうやってコードをはめたらいいんだろ?」と悩みながらコードを当てはめていったら、ちょっと面白い響きのものになっていったり。

 

―曲を作るときは、初めにテーマを作るんですか。
最初に、テーマを作ることが多いです。キーワードとなる方言だったり、言葉を結構ストックするんですけど、そこから引っ張られるイメージというか・・・・この言葉をサビでどう活かそうかで入ってみたり、この言葉だとこれぐらいのテンポだなとか。

 

―感覚で作っているわけではないんですね。
感覚で作るのはできるだけ避けたいので、色んなアプローチを試しますね。
あと、居酒屋ライブでどんな曲をやったら楽しんでもらえるかなということもあるので、他の人のライブを観に行ったりして、「自分だったら、この曲をやるのにどういう雰囲気にもっていくかな」って。
既製の曲をやっているのを見て、「こういう盛り上がりにするにはどうしたらいいかな」とか考えて作った曲が、“生まりたる日に乾杯さびら”だったりとか。
“どぅまんぐぃばい”はどちらかというと踊ってもらえるような、最後のカチャーシは定番の曲ではなくて、自分の曲でやってもらえたらっていう発想だし。一人でやるには制限があるんですけど。でも、こういうのがやりたいっていうだけじゃなくて、こういう曲があったほうがライブ進行上に必要だなっていうビジネス的な(笑)なんか、いやらしいですけど(笑)

 

―曲によって違うとは思いますけど、何か伝えたいものってありますか。
聴く方の年齢にもよると思うんですけど、僕はやっぱり人間だし、泣いてばっかりもいられないし、笑ってばかりもいられないし。怒りだって、苦しみだってあるし。でも僕は欲張りなので、全部・・・(笑)ジャンルでも何にしても、曲によって表情というか、色んな感情とかを共有できるような、伝えられるようなものを作りたいなとは思っていますね。
偉そうなことを言いますけど(笑)

 

―これが自分らしい、というものは?
歌っていて感じたりするのは、沖縄云々ではなくて。音楽を作る一人のシンガーソングライターとして、いま歌える曲、十代の頃にはきっと歌えなかった曲っていうのが確実にある、それは20代や30代でもきっとあって。
何て言うんだろう・・・そのとき、そのときに思っていることを素直に作り続けることで、もしかしたら今うたっているものを何年後かは「あれ?間違ってた・・」っていうものが、人なのであっていいと思うんですよ。
でも、いま思っていることは今伝えたいと思っているので、これから一番やりたいのはそのときしか歌えないものを、常に作っていくことは続けたいですね。

台湾に行って思いましたけど、本当に沖縄に助けられました。それは沖縄の人たち、これまでの先輩たちが作ってくれた音楽だったり、世界観だったり、他の国との関わりだったり。そういったものに、台湾では“沖縄”で受け入れてもらえるのを感じましたね。
もちろん、沖縄居酒屋で歌うということも先輩たちが作ってきてくれたスタイルで、それは“沖縄”っていうキーワードがあるから、成り立つスタイルだし。感謝ですよね、そこを忘れては絶対ダメだなと思います。
だからこそ、その次に継げられる何かをまた自分の中で残せればいいな、と思っていますね。

 

―現在、次のCDを作成されているようですが。
最近、ちょっとペースが落ちているんですけど(笑)

 

―なるほど。それでは、次回のCD制作や目標はいかがですか。
実はちょっとお休みして、本格的なレコーディングで作ろうと考えています。
今までのサポートメンバーと、それからアレンジをもう少し煮詰めて、ディストリビューションとかも入れつつ、流通させられるようなアルバムをちゃんと作ろうかな、と。
来年の春ぐらいに向けてやりたいな、という形を考えてますね。

あと僕は手売りでCDを売っているので、沖縄でほとんどライブをやっていないから沖縄に広がらないというか。どこかのお店に卸しているわけでもないですし、流通できるようなアルバムにした上でお店に置いてもらえるような形にした上で、もう少し沖縄でライブの本数を増やして、というのを思っていますよ。

 

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 音楽ジャンルにとらわれない、という岡村さんはとても素敵な声をしている。
色んな道を経て、いろんな風景を見てきたことがうかがえさせる、優しく丁寧な言葉遣いに、
思わず、こちらも耳を傾けてしまう。

そして彼は、彼の持つ言葉で歌う。
言葉の形やその面白さを、沖縄の方言から見出して音楽につなげる。
あの素敵な声とともに。

 

 

<取材:釣本忠勝/ライター:本輪のと>

 


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