島音interview ザ・レキオ 山川隼平
By habu-connection On 16 1月, 2013 At 12:09 AM | Categorized As High Light, OKINAWAN MUSIC, ザ・レキオ, 島音interview | With 0 Comments

全国を回るザ・レキオの第3弾!最後を飾るのは、三線担当の山川隼平さん。
三線を弾くきっかけや、彼の持つ世界観について初の単独インタビュー。

山川隼平表紙

山川 隼平(vocal / 三線 / guitar担当)
●プロフィール
1982年11月12日生まれ、沖縄県国頭村出身。
彼の創る音楽と人柄は、独特の世界観を持ち聴く人を魅了。
場所を選ばない彼らの音楽活動は、幅広い年齢層から支持を得ている。

●公式Webサイト http://the-lequio.com/info.html



◆インタビュー目次◆
・できるかもしれない、ということ
・かりゆしとそれから
・僕らというよりは僕、僕の中で
・世界を広げる企画書のようなもの
・僕にしか作れない曲を作れたら

 

 

●できるかもしれない、ということ――――

―いつ頃から音楽を始められたんですか。高校生から?
そうですね、中学2年か中学3年ぐらいからですかね。

 

―早いですね。
早いんですか。でも、周りにはいなかったですね。

 

―周りにいなかったのに、なぜですか。
那覇に住んでいるいとこが、エレキギターを持っていたんです。「ちょっと弾かせて~」って、弾かせてもらったら面白かったというか、おおーって感じて。いとこも、まさか趣味ぐらいに弾いているんだろうと思って「弾いてみて」って言ったら、むちゃくちゃ弾けたんですよ。これは僕もできるかもしれない、と(笑)

 

―やりたい、ではなくて、できるかもしれない?(笑)
「できるかもしれない」と思って。なんでだか知らないですけど(笑)それで、やりたいって思いましたね。

 

―では、まずギターからスタートされた?
まずギターですね。エレキギターからです。ちょうどその頃、ヤンバラー君が1つ年上でバンドとかをやっていて、学校の何かのイベントとか発表会でバンドで出たりとかしていたので、その影響もあったりしたんですけど。ちょうど興味を持っているその頃に、周りがそういうバンドをやっていたんです。

 

―当時は、どんな音楽を聴いていましたか。
僕は、GLAYですね。

 

―当時、流行っていた?
はい。

 

―ヤンバラー宮城さんとは、子どもの頃からの知り合いでした?
まぁそうですね・・・でも中学ぐらいからですかね。知ってはいたと思うんですけど、喋ったことはなくて。中学ぐらいから、話すようになりました。

 

―部活が一緒だったとか?
そうです。サッカー部で、中高と一緒でした。

 

―中高と一緒だったんですか。高校のとき、バンドは?
高校のときは、遊びで。軽音部とかあるじゃないですか?サッカーをしながら、軽音部を覗きに行ったり。一応ずっとギターを弾いてはいたので、メンバーが足りないときには弾きに行ったりぐらいですけど。

 

―そうだったんですね。そのあと、ヤンバラー宮城さんは福岡へ先に行きましたよね。それから山川さん自身が福岡に行きましたけど、なぜ福岡だったんでしょう?
福岡へは、学校でしたね。音楽の専門学校に入学したんです。

 

―学校を選んだ先に、たまたまヤンバラー宮城さんがいたんですね。
そうなんです。

 

―ヤンバラー宮城さんから、お二人でよく“ゆず”をやっていたと聞きました。
それは、僕自身は高校生のときからやっていて。友達と一緒に、バンドから徐々にフォークに変わっていって。もう高校3年ぐらいからは、ずっとフォークでした。
福岡に出てきたときも、ギターだけは持ってきていて弾いていました。

 

―たしか、寮生活でしたよね。うるさいとか言われませんでした?
寮でしたね。でも寮の半分は、音楽学校の生徒だったので。うるさいのはうるさいんでしょうけど、大丈夫でしたよ。防音ではなかったし、何でもないようなところでしたけど。

 

―音楽の専門学校に進学したということは、音楽の仕事に進みたかったからですか?プロになるってことではなくて?
そうですね。プロになるってことじゃなくて、フワッとした考えで音楽関係という括りで、とりあえず。

 

 

●かりゆしとそれから――――

―“かりゆし”(ザ・レキオの前身)を結成するときには、すんなり?
すんなりでしたね、遊びだったし趣味だったので。とりあえず、グループ名を決めようみたいな感じ・・・ヤンバラー君と二人で遊びの感じでやっていて、とりあえず決めようと“かりゆし”に決まって、そこからズルズルというか(笑)趣味のような、仕事のようなという感じが、5年ぐらいかな。でも、いつから本格的にっていうのはもう全く分からないぐらい。それがいいところであり、悪いところであるのかもしれないですね。そういう雰囲気というか。

 

―なるほど。ところで山川さんも曲を作られますが、いつ頃からオリジナル曲を?
僕は高校ぐらいからですね。高校ぐらいから一応作ってましたけど、全然できなかったです。なんか、全く納得するものが作れなかったというか・・・。

 

―“かりゆし”の頃は、作っていたんですか?
いや、作ってないですね・・・1曲ぐらいとか。

 

―途中で、おばあが送ってきた三線を弾くようになるじゃないですか。おばあには、何も話してないのに送られてきたんですか。
何も言ってないんです。いま考えるとすごいなって。

 

―それで、三線を担当するようになる?
いえ、ギターを弾きたかったんですけど、ずっと。なのでヤンバラー君と交代にやっていて、「この曲はギター弾くけど、あの曲は三線を弾くよ」とか。それであるときから、僕が三線を弾く割合のほうが多くなってきて。ライブ中とかも、持ち帰るのが面倒くさいじゃないですか。だから、もう統一しようってことになって「三線やるよ」ということになったんです。僕の三線でもありましたし。

 

―それまで、民謡をしていたことは?
ないですね。

 

―三線スコアを買って、民謡とかを勉強された?
自己流でというか、自分で譜面とかを買って「工工四」とかあるじゃないですか。弾く練習をして、三線の先生とライブする機会もあるので、そのときに先生を見本にしたりとか。勉強ではないですけど、そういうことはしましたね。

 

隼平②
―“かりゆし”と“ザ・レキオ”の曲は、三線がないと一般的なポップスになると思うんですが、その中で三線のフレーズを入れる苦労や入れたことによる苦労はありますか。
ありますね。ただ曲調が、どこか沖縄のフレーズが入っていて、全部がポップスというわけじゃないので、そこに寄せてというか。何かしらどこかにヒントがあるので、そこから広げていったりという感じで。
でも、それも色々と考えたんです。ポップスにするのか、民謡ポップスにするのか、民謡寄りでもっと三線をメインにするのか。考えたんですけど、まず民謡寄りにするのは無理なんですよね。もういるし、やっても面白くないと思うから。かと言ってポップスをやるのも、ポップスの人には勝てないからと思って。じゃあ中間をやろう、ということで。
みんな中間はやるじゃないですか。THE BOOMさんだったり、BEGINさんだったり。
それぞれの音楽があっての沖縄風だったり、ハワイアンだったり、ジャズだったりを、たまにやりますよね。それをとことんやったら、オリジナルになるんじゃないかなって考えたんです。だから、ポップスの曲ができても三線を入れることに違和感がない。無理やり自分の中で、違和感をなくしました(笑)自分の中でOKにした(笑)

 

―これはこういうもの、みたいな(笑)こういうジャンル?
そうです。だったら民謡じゃなくても、沖縄限定じゃなくてどんなジャンルにでも三線は使えるよってことになったら面白いかなって。あんまり人がやってないことをやるのが好きなんで。三線をつけることは、楽しくやってますけど(笑)

 

―ザ・レキオは変わった編成でベースの赤星さんがいますけど、それはヤンバラー宮城さんが?
いえ、気づいたらいましたね(笑)気づいたら、赤星君がいました(笑)
ヤンバラー君が話して、バイトで知り合ったんですけど。バイトで「遊びに来ない?」って話していたみたいで、僕が事務所に行ったら赤星君が来ていて、じゃあ会わせようかって。そこから何となく(笑)

 

―赤星君に会って、しっくりきた感じだったんですか。
ほかのバンドを色々やっていたわけではなかったし、分からないじゃないですか。合っているのかも分からないし、僕の好きなベーシストのタイプも分からないし、好きなギターや好きなボーカルとか、そんなにこだわりがある感じでもないですから。だからやっていて、しっくりきたというよりはそのまんま(笑)ザ・レキオとして、そのまんま(笑)

 

―そのまんま(笑)わりと自然体でザ・レキオが出来上がった?
そうですね。

 

―三線が送られてきたのと同様に?
はい、そういう感じです(笑)そんなところからきてますね、最初から。
だから、自分たちの大きな判断でというか、勝負するってことをあまりしてきてこなかったので。最近はちゃんとやらなきゃ、と。

 

―それで、東京に出てきたんですよね?
はい。それで東京に来たっていうのもありますし。

 

 

 

●僕らというよりは僕、僕の中で――――

―東京に出ることは決めていたと思いますが、このタイミングとなったのはやはりヤンバラー宮城さんの一言がきっかけですか。
はい・・・いや、そうなんですかね。分からないですけど(笑)

 

―では、東京に行く、となったときはどんな感じでした?
みんなで話をして、やるなら東京というか。もうずっと憧れて東京で成功する、ということを目指してきた感じではなかったので。ただもうちょっと必死で、というがむしゃら感っていうのが僕らにはなかったんですよ。僕らというより、僕はなんですけど。僕の中で、がむしゃらにやるっていうのがなかったので、もうちょっとやらないとまずいなっていう時期にきてて。
ちょうどその頃にみんなと話してたら、東京に行こうかっていう話に。
(ヤンバラー宮城)誰がっていうわけじゃなかったような気がするんですよね。

 

―じゃあ三線としては、そういう時期に差しかかってたという感じ?
そうですね、そんな感じでしたよね。だからザ・レキオに名前が変わるときも、そんな感じでしたね。誰がっていうよりも、みんながそう思ってて。誰かが一言ポンっと言ったら、「あそうそう!」って食いつきが良かったからそうなった、という感じ。

 

―では、大体みんな同じように進んできているという感じですか。
一応そうですね。そういうことなんだろう、って今思いました。

 

―福岡に比べて、東京はどうですか。
福岡に比べてですか?どうなんでしょうかね。まだ楽しいよりは、不安の方が多いですね。ちょっとまだ、楽しさを見つけ出す余裕はない感じです。なんか、東京は厳しいなっていうのが先にあるので。みんな勝負しにきているし、大体ではできないというか。変な心の余裕はいらないというか。
沖縄料理屋さんを回っているんですけど、沖縄料理屋さんの対応も違うんですよ。
東京以外はゆるいというか、僕的にはそれが当たり前だったんですけど。東京へ来て、沖縄料理屋さんの対応っていうか何て言うんですかね。時間とかきっちりしているし、システムもそうだし、連絡のやり取りもすごく多いし。それだけ「この時間にこれをやる」、「この時間にはこれをやってね」って。割り振りとか完璧にはっきりしている。逆にそうやっていないと、プロとしてやっていけない場所というか。
そこで成功するためには、今までやってきたことが通用しないと思っているので。その辺のプレッシャーみたいなものもありますね。

 

―それを感じる?
感じますね、本当に。僕らのPAをしてくれる音響さんが、メチャメチャギターが上手かったり。一緒に飲んでいる人が、どこかのプロデューサーとか。そういう人が普通にいるじゃないですか。普通にいる中で成功することに、感じてしまいますね。

 

―曲を作るときは、何にインスパイアされますか。
インスパイアは、感動する曲を聴いたらインスパイアされるんですけど。そんな雰囲気の曲を作ろうとは思わないです。

 

―どういうときに、オリジナル曲を作りますか。
僕は、常に考えるようにしていますね。最近は特にです。だから、ネタはすごくいっぱいあるんですけど、それを完成させるようなサイクルにしていかないと。

 

―それは生活の中から出てくるというよりも、常に温めて持っている?
生活の中から出てきているのかな・・・・いや、でも僕は作ろうと思って作ってますね。
生活の中から出てくるって人は、羨ましいです。自然にそれが必要というか、出るべくして出てきたみたいな方が羨ましいし、格好いいですよね。
でも、僕はそういうタイプじゃないです。

 

 

 

●世界を広げる企画書のようなもの――――

―去年のマンダラのワンマンで劇をされてましたが、提案は山川さんだとお聞きしました。
あれは、面白そうだなと思って(笑)
隼平①
―曲の世界観を広げるとか、そういうことですか。
うーん・・・そうですね、それもありますね。あと面白いことをしたいなって、今までにない曲を作りたいなって考えたら、途中で劇を入れることに。ほかの周りのミュージシャンもやってないかな?やってなくはないんですけど、あまり見たことがないっていうか。ただそれが出来るバンドは、限られるじゃないですか。ま、僕らならアリかなっていう挑戦的なというか。あれが初めてではなくて何回かやっているんですけど、東京でも一度やっとこうかと(笑)様子見というか(笑)それで、あのときはやりましたね。

 

―手応えは、ありましたか。
手応えは、でも半々ですね。半々ということは、まぁアリなのかなーと思いますけども。

 

―あれを観て、ザ・レキオは何でも出来るんだと思いました(笑)
そうですか、有り難いですね(笑)

 

―提案したときには、ほかのメンバーからすぐにOKが出ましたか。
基本的には、すぐには出ないです。すぐに出ないほうが多いかも・・・結構、僕の中ではアリでも二人の中ではナシっていうのがある、どうもそのOKラインが違うらしくて。その辺をどうみんなが納得できるようにするのかっていうのは話し合って、台本を見て修正して。「ここは隼平色が強すぎる」「でもこうなったらヤンバラー色が強すぎる」って、徐々にみんなのちょうど真ん中ぐらいにしていって、「じゃあこれならできるね」と。

 

―最初に台本を持っていった?
一応書いて、持っていきましたね。

 

―企画書みたいなものですか(笑)
企画書みたいなものですね(笑)そしたら、ああいう形になって。芸というか、そういうのはヤンバラー君が上手いので、普通にできるとは思うから。どんな感じでやったらいいかな?って話したら、こんな感じがいいんじゃない?みたいなのがあったりとか。
よくスベることはありますね(笑)スベったけど、もうネタ決まってるし。あと5分ぐらいあるし(笑)もう、そういうときは辛いですね(笑)

 

―そういうときは、台本を直すんですか。
直しますね。

 

―もうやらないってことは?
あります、あります。3つぐらいネタがあって(笑)
去年のマンダラでやったものが一番硬くて、最初に作ったものですね。

 

―そういう音楽だけではない要素というのは、バンド以外もやりたいっていうのが強い?
いえ、強くないですね。そういうわけではないです。

 

―ザ・レキオだから許される?
あーそういうことですか。基本的にそういうのが好きなんだとは思いますね。好きなんだけど、音楽が一番だと思っているので、あまりそうだとは言いたくないところなんですよね。誤解されるのもあれなので。でも好きなことは好き・・・そういうバラエティー的なこというのは、好きなのかもしれません。
それをミュージシャンでやるのが格好いい。って、格好いいかどうか分かりませんけど。僕は、そういうのが格好いいと。それができるバンドって、幅が広いじゃないですか。飽きないと思うし、自分たちがやっていても楽しいと思うし。たとえば、映像系も強くなれるかもしれないし。

 

 

 

 

●僕にしか作れない曲を作れたら――――

―ザ・レキオでどういう部分を伝えたいと考えていますか。
そうですね。楽しい気持ちになってほしいな、というのはありますね。基本的に楽しいバンドって見ていて好きなんで、僕が。歌詞とかでまったく何を言っているか分からないけど、楽しそうなのって何か好きなんです。自分で勝手に歌詞とかを解釈して、メッセージになる。なんか分からないけど元気になる(笑)

 

―普段から、そういう曲を聴くんですか。
普段はですね・・・・そのときそのときで変わりますね。常にそういうのを聴いているのではなくて、あくまでザ・レキオとして伝えるならということで(笑)
ザ・レキオの音楽は沖縄も絡んでいますけど、でも沖縄っていう感じでもないような気がする。と、僕は思ってますけど。そこがメインではない。むしろ、こっちで生活していることのほうがリアリティなので、僕の中では。

 

―どういうところに、リアルさを?
リアルというか、沖縄にいま住んでいないから、沖縄に感じることって今はないじゃないですか。音楽をちゃんと始めてから、それが僕にはないので。だからリアルじゃない、今はっていう感じですね。ただニュースとか、色んな人から聞くことで感じることはできるんですけど。自分の中でリアルなのは、例えば東京とかで活動していてお世話になっている人との気持ちとか、そういうものの方が僕は強い。
感謝の気持ちというか、応援してくれる人たち、支えられている感じ。そっちの方が、強いです。

 

―最後になりますが、今後の目標を。
そうですね、ザ・レキオでしかやっていけないことをやっていけたら、ずっと面白いことができるんじゃないかな。面白いことやっていきたいっていうのはあります。

 

―個人的な目標については、いかがですか。
うーん・・・僕しか作れない曲が作れたら、満足するかな。

 

―今のところは、満足できてない?
できてないことはないんですけど、更にですね。もうポンポン作っていく(笑)
それで僕にしかできないことができたら、またザ・レキオにとっても面白い色になると思います。

 

 

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ザ・レキオの初となる単独インタビューも、今回が最後。
三線との出会い、赤星さんの加入、音楽ジャンルについての違和感など、
山川さんの自然と受け入れてしまう姿勢に、思わず感服してしまう。

大きな潮流の流れを感じ、その流れを受け入れるとともに、
新たに面白さや楽しい気持ちを模索する。
彼らの今後が、ますます私たちを楽しませてくれるだろう。 

 

 

<取材:釣本忠勝/ライター:本輪のと>

 


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