島音interview  ザ・レキオ ヤンバラー宮城
By habu-connection On 18 4月, 2013 At 12:29 AM | Categorized As OKINAWAN MUSIC, ザ・レキオ, 島音interview | With 0 Comments

福岡から東京へ進出し、これまでと変わらずに全国を回るザ・レキオ。
“かりゆし”から”ザ・レキオ”への変遷、また東京へ進出するときの想いなど、初めの
第一弾をボーカルのヤンバラー宮城さんに聞く。

ヤンバラー宮城(vocal / guitar / 三線担当)
●プロフィール
1981年5月30日生まれの、沖縄県国頭村出身。
出身地である沖縄のアイデンティティを大切にしながらも新しい文化を取り入れていく、
アットホームかつ圧倒的なライブパフォーマンスで全国各地でライブ活動を展開中。

●公式Webサイト http://the-lequio.com/info.html



◆インタビュー目次◆
・求めていたもの、求めてきたもの
・かりゆしからザ・レキオへ
・音楽としてのひとつ
・東京
・メッセージ

 

●求めていたもの、求めてきたもの――――

―福岡でザ・レキオを結成する前、沖縄では音楽をされていたんですか。
学園祭とかで、ちょっと歌ったりとかはあったんですけど・・・音楽自体をやっていたわけではないですね。

 

―歌ってはいたけれど、楽器はやっていなかった?
ブームがあって、ギターを触ったことがあったぐらいで。もちろん、そのときにミュージシャンになろうだなんて考えたこともなかったし。
でも人前で何かをするのは好きだったので、学園祭で司会をしたりとか、喋ることは平気でしたね。人前で喋れるから歌えるだろう、みたいな感じで軽音部の人たちに「お前、歌えよ」と(笑)

決して上手いわけではないけれど、堂々と歌っていたことが画になって良かったんでしょうかね(笑)形から入るのが大好きなので(笑)一応、サッカー部にいながら軽音部に仮入部で片足を突っ込んで、学園祭のシーズンになると行くっていう。あとはドラムもいなかったから、叩いていました。それも決して上手いわけではなく、それふうに叩いて(笑)

 

―顔で踊るタイプですね(笑)
それです(笑)
高校生のときに、知り合いの人がホテルで結婚式を挙げたんですね。そのときのホテルマンが、すごく格好良かったんですよ。一生に一度の結婚式を盛り上げる企画力とエンターテイメント性に、これは感動だなと思って。ブライダルで最高の演出をしたいと思いました。ブライダルの仕事って女性が多いですけど、でもホテルマンはサービス精神の最高峰の仕事だと思ったので。

それに一度は、沖縄を離れて内地で経験したかったし、最終的には沖縄に帰って就職するけれど、2年間ぐらいはと思ってホテルビジネスを学ぶために福岡の専門学校に入ったんです。でも、ホームシックになっちゃって・・・だけど入学金も払ってもらっちゃったし、せめて2年間は行って卒業しないと、って思ったんですよね。

 

―ホームシックになったんですか。
はい。それで、ホームシックを紛らわすために始めたのがギターでした。
博多駅前で歌とギターで路上ライブを一人で始めて、次の年にたまたま隼平(ザ・レキオ/三線担当)が福岡に上京して、隼平の寮と僕のアパートが近かったので一緒に飲んだり、福岡を案内したり。隼平はもともと高校のときから音楽をやっていたし、「一緒に路上ライブをしないか」って言って二人でやるようになってから、だんだんオリジナル曲を作るようになったんです。

僕は、けっこう早くに就職が決まって、あとは卒業するだけ、もう最後になるしと思って路上ライブを楽しんでいたんですよ。
そしたら、福岡の事務所の人に「君たちいいね」って声を掛けられて、本格的に音楽をやってみないかって言われたのを「いや、いいです」と何回も断りました。就職も決まってたし、音楽でやっていこうと思っていたわけではないのでって言ったんですけど、毎週その人が路上ライブに来たんです。それでだんだんと、向こうもいろいろ考えて「せっかく音楽を始めたんだし、最後に思い出作りでライブハウスでライブをしないか」と。
思い出作りにいいかな、と思って引き受けたんです。もう今はなくなった福岡のライブハウスでやったら、初ワンマンライブで80人ぐらいのファンが来てくれて、わーっと盛り上ったんですよ。そのときに、僕は分かりやすい性格なので最高に気持ちいいと思って(笑)

 

―求めていたものはこれなんだ!、と?(笑)
エンターテイメントだ!と(笑)そこから、音楽をちゃんとやっていこうかなという方向になりましたね。結局、決まっていた就職を蹴って。

 

 

●かりゆしからザ・レキオへ――――

―ホームシックから音楽が始まるって、禎一馬さんと似ていますね。
禎くんともすぐに仲良くなれたっていうのも、ルーツが似ていたというか。違うのはルックスかな(笑)
初めて練習した曲が“ゆず”だったりとか。ゆずの曲はコード進行とかも難しくなかったし、アコギで練習するにはすごくいいよって聞いていたので。本当は、ミスチルとかも好きなので弾きたかったんですけどね(笑)

 

―そうなんですか(笑)もともとはどんな音楽を聴いていたんですか。
僕は、何っていうものはないんですけど。90年代のJ-POPが豊作な時代だったので、スピッツとか色々を聴いたんですけど、音楽的にある時期から影響されたのは“ウルフルズ”でしたね。

僕の音楽スタンスというのは、トータス松本さんを意識しているというか。表現は島のことなんですけども、小洒落た感じというよりはストレートに歌おうみたいな。トータス松本以外が歌うとあまり良くない、その人が歌うからいいっていう人間が出ている音楽。だから、ボーカリストとしてもシンガーソングライターとしても僕もそうでありたい、と思って。音楽が似ているというわけではないんですけども、そういったところは影響を受けています。
民謡をされている方は癒すような沖縄の曲が多いんですけど、僕は島のリズムでも「ベイベー!」とか言いますからね(笑)そのへんは完全にウルフルズにインスパイアされているところです(笑)

 

―意外なお話でした(笑)では、オリジナル曲を作るにあたってはヤンバラー宮城さんらしさというものが、すぐに見つかった?

いやまずは安易な発想だったんですけど、ゆずみたいなポップな曲から始まって、でも個性を出さないといけないなと。
当時はゆずがすごく流行っていて、博多の駅前5メートル間隔ぐらいでゆずがいたんですよ(笑)色んなところで『夏色』が流れていて(笑)

だから、ここで目立つためには僕ららしい個性がないとダメだと思って、僕ららしい個性ってなんだろう?って考えたときに、また安易なんですけど、故郷の沖縄の音楽という武器があるなって。そこで個性を出し始めたんです。

 

―すぐに辿りつけたんですか。
これが奇跡なんですけど、僕と隼平が6畳一間のボロいアパートで個性をどうしようか考えたときに、たまたま隼平が「おばぁから三線が届いた」と。それで、「これだ!」となって三線とギターでやり出して。
そこで1年もしないうちにNHKで『ちゅらさん』が始まって、BEGINさんが『島人ぬ宝』オモトタケオを出して、空前の沖縄ブームが始まったんです。だけど沖縄の流れがきて、今度はそれがスタンダードになればなるほど、もう武器ではなくってしまうんですよね。
BEGINさんみたいだね、とか・・・沖縄のポップスがスタンダードになったことは、一つのジャンルが出来上がったということだし、そうやって広がっていくのは沖縄の人も有り難いことだとは思うんですけど。ロックバンドやポップスの中でやると、まぁ三線弾くだけで珍しいというのはあっても、琉球フェスティバルとか沖縄のイベントでやるとなると、もう普通じゃないですか。
そこで個性を出すには、と考えたときに「どんな感じの目指そうかな」と“りんけんバンド”さんとか色々聴いたりして、それで最終的には“ウルフルズ”かなと(笑)

僕の中では、温かい曲をやればBEGINさん、ロックでやればパーシャクラブさん、の次に結局なるので、楽曲は違うけどウルフルズっぽいのを(笑)バカなことを一生懸命に歌う、当たり前のことを真剣に歌う、そんな青年たちになりたいなと思って。分かりきったことを真剣に歌われたら、それはそれで格好いいじゃないですか。
ちょっと忙しすぎて忘れてしまったり、哀しいことがあって忘れてしまったりしたときに、当たり前のことを大きな声で歌われて、それでバカらしくなって、「そうだよな、ちょっと忘れてた。よし頑張ろう」って思える音楽になったらいいなと思って。
それで、バンドのコンセプトを『NUCHIGUSUI MUSIC』(NUCHIGUSUIとは沖縄の方言で命薬の意味)にしたんです。

 

―それは、その頃から?
『NUCHIGUSUI MUSIC』は、ザ・レキオになるちょっと前からです。

 

―そのときぐらいから、伝えたいものが強くなってきたんですか
そうですね。もともとはバンド名が“かりゆし”っていう名前だったんですけど、沖縄を連想させすぎて自分たちも縛られてしまって。
ロックな感じもしたかったし、三線がいらない楽曲だったり、レゲエもしたかったし。
だけど名前によって、自分たちの可能性をすごく狭めているような感じがしたので、アイデンティティーを残しながらも沖縄を連想させないバンド名にしたいなと思って、響きだけで“ザ・レキオ”にしました。ザ・レキオの“ザ”は、男の子の憧れなんで(笑)
調べてみると、ポルトガル語でザ・レキオは“琉球”という意味なので、一見すると沖縄とつながりがないように思えるんですけど、実はしっかりとアイデンティティーを持っているのがいいかなと。不思議と名前を変えてから、自分の枠がパンッと外れて、すごいロックな曲を作ってみたり、レゲエな感じの曲を作ってみたり・・・今回だしたアルバム『LEQUIO』は、沖縄っぽいかりゆしの曲が1曲ぐらいしかなくって、あとは結構ポップな曲です。

 

 

●音楽としてのひとつ――――

―たしかに今までの曲はお客さんを意識されていたかな、と思いましたが、今回のアルバム『LEQUIO』はちょっと違いますよね。
あーそうですね。わしたショップ(沖縄物産店)に置かれるようにと思っていたのが、今度はタワーレコードに置かれるようにと意識があって。沖縄のお店に置かれるCDだけではなくって、もっと範囲を広げて沖縄が好きという人だけではない、沖縄に興味がなかった人でも、ザ・レキオは好きよっていう人たちも増えたらいいなって思うし。
今までの音楽は沖縄が好きっていうのが根底にあって、BEGINさんを聴いてみたり、パーシャクラブさんを聴いてみたり、THE BOOMさんを聴いてみたり、ザ・レキオを聴いたり。
それはそれでいいんですけど、EXILEを聴いたり、嵐を聴いたり、ミスチルを聴いたりの中でザ・レキオを聴く、みたいな幅広い中での選択肢としてありたいと。

 

―沖縄の中のひとつではなくて、音楽の中でのひとつでありたい?
多分、ここ最近の沖縄のアーティストはみんな考えているところだとは思うんですけど。
もう三線を使うことが珍しいことではなくなってからは、みんなそこを試行錯誤したりとか考えていると思いますよ。だからこそ、もうそろそろ一段階うえの沖縄色・・・たとえば、オモトタケオの新しい次世代の沖縄ポップスが出てくるんじゃないかなと思いますよ。
それが僕らであってほしいな、ありたいなと思って日々頑張っているんですけど。

 

 

―沖縄ポップスと呼ばれることに、抵抗はないですか?
僕は、あまり気にしてないですね。呼びたい人はそう言ってもいいし、「沖縄ポップスだよね?」と言われたら「はい」と言いますしね。沖縄音楽と括りに入れられても、聴いた人がどの曲を聴いたかで変わってくるので。すごく民謡的なものも作りたいなと思っているし、幅広くやっていきたいです。

 

―今回のアルバム『LEQUIO』には、沖縄特有の「イヤーサッサ」が少ないですが。
狙ったというのもあるし、もともと入っていない曲を選んだっていうのもあります。
あと「イヤーサッサ」自体は、前のCDで何回言ったかなっていうぐらいだったので、今回はもっと違う角度の沖縄テイスト、「イヤーサッサ」を言わないで沖縄を感じられるように意識しましたね。
今までの僕らの感覚でいったら、新しくチャレンジしたアルバムではあるんですけど。
果たして、これまで好きでいてくれたファンの人たちが「これいい!」って思うかの不安もありながら、でもそれにビビってたら新しいことできないしなって。それで、ようやく作ってみたアルバムなんです。でもすぐにまた、もうちょいこうしたほうがいいとか、こういう曲がやりたいとか発想が出てきたので。まだまだ集大成ではなく通過点のアルバムですけど、もう少し新しいところを探せるんじゃないかなっていうのはありますね。

 

 

●東京――――

―この前、ブログが何かで「休日に曲を作っていた」とありましたが、曲はどこから出てくるんですか。
ギターをかき鳴らしているときに出てくるときもあるんですけど、僕はけっこう移動中とか・・・車を運転しているときとか、原付に乗っている時とか、チャリに乗っているときとか。夜道ですごく熱唱しながら原付に乗っている人とかと、すれ違うじゃないですか。ちょっと笑いそうになっちゃうんですけど、自分もいざイイ気分になってテンションが上がれば、メロディを忘れないようにずっと繰り返し歌いながら家に帰るわけですよ(笑)
ぜひ、このハブ・コネクションをご覧になっている皆さんに言いたいんですけど。すれ違う原付が熱唱していても、もしかしたらものすごい名曲が生まれている瞬間かもしれないので、そっとしておいてください(笑)

 

―笑わないでください、と?(笑)それで、ちゃんと覚えて曲にするんですか?
そうですね(笑)止められるシチュエーションで、すっごくいいメロディだったら止めて、携帯に録音して、家に帰ってメロディをギター弾きながら作ります。メロディがある程度できたら、曲にあった歌詞を「これはラブソングがいいなー」とか、パーッと書き溜めた歌詞から当てはめたりとかっていう感じです。

 

―移動中は三人で移動されてるかと思うんですけど、そのときでも歌っているんですか?
そのときは、ブツブツと歌いながら・・・僕が運転していたら、勇二郎(ザ・レキオ/ベース担当)が助手席で隼平が後部座席に乗ってて、僕が歌っていても二人は特にもう突っ込むことはないんです(笑)「あぁなんか鼻歌うたってんだろうなー」って。
それでブツブツ歌っていたら、パーキングでトイレとかに寄ったときにちょっと携帯に録音して忘れないようにしてます。

 

―お二人は、それを知っているんですか。
そういう話をしたことはあるんですけど、勇二郎も移動中のほうが曲ができやすいって言ってました。結構ぼくは、移動中とか風呂入っているときとかにできやすいですね。
よし!曲作ろう!っていうのができないので、ボーっとしていたり、テレビを観ていたり、お皿を洗っているときだったり、扇風機を拭いているときだったり(笑)なにか片手間じゃないと、できないです。

 

―意識しないところで意識して?(笑)
意識はしているんですよ(笑)掃除機をかけながら、曲作ろうって意識しているんです。
ただ意識して、いざ机の前で紙とペンをもってギターを弾いても作れないので。
歌詞はすごいスタンダードではあるんですけど、なにか映画を観たり、感動すること・・・たとえば、映画を観るじゃないですか。エンディングが流れてきたら、消すんですよ。エンディングを観ないように。それで考えるんですよ、僕だったらどんなエンディングを作る?って。それを歌詞にして作ったりもするし。僕のたかが31年の実体験って、恋愛然り実体験には限界があるじゃないですか。実体験を交えながらもあるんですけど、映画を観ながら自分と重ねたりして。こんな恋愛したいなってそういうのがあったときは、もし僕なら彼女にこう言うなとか、最後の決め台詞は僕だったらこれがいいとか、最後のエンディングはこんな感じでやるっていう、曲を勝手に作るんですね。

 

―それは、今までの曲でもあるんですか。
ありますね。えーっと、CDには入れてない・・・昔だした廃盤になったCDの中には入っている曲で、『恋唄』っていうのがあるんですけど。もう6年・7年ぐらい前の曲です。
夜中に眠れなくて眠れなくて、島を舞台にした映画を観て、せっかくいい映画だったのにそのエンディングがえー何でこれ?っていう曲で、ちょっとへこんだんですね。ここまではとても良かったのに、と思ったから、よし!僕が作ろう!って勝手に(笑)
それで、作って当時のMDに録音して、また映画を借りてきて最後のエンディングに流してみたら最高だった(笑)っていう遊びをよくしていたんですよ。この映画にはこの音楽がいいとか、勝手にカスタムするのが好きなんです。

 

―東京に進出しようというのは、以前から決めていたんですか。
もうだいぶ前から・・・いつかは東京に行くって7~8年ぐらい前から考えてて。
最終的には東京だけど、まず福岡で沖縄のバンドといえばってまでは持っていかないといかんなと思っていました。
あとスロースターターなんで、すごい居心地のいい住みやすい、食べ物も美味しい福岡に腰を据えすぎてしまって。なかなか離れにくくなったのはあったんですけど。そろそろ行こうと。勝負しようというよりは、福岡でずっとやっていてなかなか実を結ばなかったんで。もちろんスランプというか、もう10年も福岡でやっていたから、落ち込んだ時期もあったり中だるみのときもあったり。東京に行く一番の大きなきっかけになったのは、二人はどうか分からないですけど、僕はなんかもうそろそろ音楽をやめようかなっていうのがあったんです。

やめるというより、当時はバンド名が“かりゆし”だったんですけど、かりゆしを解散するというよりは普通に就職して、趣味でやろうかなっていう気持ちがあって。終わろう、区切りをつけようって思い出したときに、いやこのまま終わったら後悔するなって思って。

どっちかっていうと、終わり場所として終わるために東京に行こうって背中を押された感じがあります。始めるぞっていう感覚で東京に行くというよりかは、すごいカッコイイ言い方をしたら死に場所を探しにじゃないけど(笑)
でもなんか、そういうスイッチが入ったら今度はなんだか始まった気がして(笑)名前も変わりし。でも、始まったー!っていう感覚になれたのは、一回終わろうという感覚を持ったからかなと思っているんですよね。
それで、二人にも東京へ行こうと。行くならある程度の期限を決めて、それまでに結果が何も出なかったら、福岡で終わるよりかは東京で勝負して、それで結果が出なかったら気持ちよく趣味にできるから。気持ちよく就職して。

 

 

●メッセージ――――

―ホテルマンになる?
今はもうホテルマンになるかは分からないですけど。でも、気持ちよく終わるために東京に行こうってなったのが、今は全然終わる気がしないので。

 

―盛り上がっていますよね。とても忙しそうです。
そうですね(笑)今はちょっとずつ、沖縄料理屋さんでやるのを減らしてきていますね。
ここ3年ぐらいは、沖縄料理屋さんがメインステージで、ライブハウスでちょこちょこ出るっていう感じだったんですけど。
来年からは、がっつりライブハウスイベントが基本の土俵で、沖縄料理屋さんもたまにやるっていうスタンスでやっていこうと、今年からちょっとずつ来年に向けてやっているところです。

 

―では、今後の目標についてはいかがですか。
2007年に一度、ポニーキャニオンからCDを出して、形上はメジャーデビューしているんですけど、すぐに終わったので。目標としては色んな夢があるんですけど、まず近々の目標としてはメジャーデビューにしようと。メジャーに向けてヒットソングも作って、いい曲作って。そこからまた色々と始まると思うんですよ。スタートラインに立とうと。
成功するにしても失敗するにしても、きっとまたできるので、メジャーの土俵に行けたらいいなと思ってます。

 

―最後に何かメッセージはあれば。
最後に一番伝えたいのは・・・禎一馬くんと一番違うのはルックスで(笑)ここは太字でお願いします(笑)
そうですね、全国をずっと回ってきてせっかく東京に来て、来年からも東京を中心に回せるようにいこうと思っています。とくに東京は、僕が見ていても大人も子供も余裕がない気がするので、自分の事で精いっぱいで必死に生きている気がして、そういう場所だからこそ『NUCHIGUSUI MUSIC』を届けていけたらなと思っています。

 

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ザ・レキオにとって、初の単独インタビューとなった今回。
ヤンバラー宮城さんの気持ちを、素直に話してくれたのはとても嬉しい。
人を楽しませることが大好きな少年は、大人になっても変わらずにここにいる。
人気を得ても、ただ目の前の人を楽しませる気持ちは忘れていない。
それが彼の魅力であり、人気の秘密だ。 

 

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