島音interview ~加治工 敦~
By habu-connection On 19 3月, 2013 At 12:56 AM | Categorized As OKINAWAN MUSIC, 加治工 敦, 島音interview | With 0 Comments


「鳩間の港」で有名な歌手である父と、鳩間島音楽祭を沖縄・鳩間島で開催する加治工敦(かじく あつし)さん。音楽が盛んな島で過ごした青春時代と、音楽に向き合い始めたその瞬間について迫る。

加治工 敦(かじく あつし)
●プロフィール
沖縄県八重山郡の鳩間島生まれ、横浜在住。
沖縄民謡の歌手である加治工勇氏を父に持ち、沖縄を代表するバンドBeginのギタリスト島袋優や
モンゴル800のボーカルキヨサクと“恋の島バンド”を結成。
●公式Webサイト http://www.koinoshima.com/index.html 

◆インタビュー目次◆


●始まりと影響――――

―鳩間島にいらっしゃるお父様は歌で有名な方ですが、物心ついたときには代表曲「鳩間の港」を歌っていたんですか。
父は、僕が物心ついたときから歌っていました。でも、「鳩間の港」は僕が小学3年生ぐらいの夏に作った曲だと思います。

 

―作曲していたところを見ていた?
いや、なにかやっているのは聞こえていましたけど。
その年は、たしか台風が多くて身動きが取れなくて、やたら歌っている曲があるなと思って。同じ曲をずっとやっていて・・今思えば、その曲でした。

 

―小さいころから、お父様の影響を受けていたんですか。
いや、ないですね(笑)

 

―では、いつ頃から音楽を?
中学生ぐらいから始めて、初ライブは高校生でした。人からお金をいただいて、ライブしましたね。当時、一人500円ぐらいだったと思うんですけど。

 

―その頃って、バンドブームでした?
バンドブーム、やばかったですね(笑)そうそう、すごかったです。誰でもバンドをしている感じでした。文化祭でも、ありえないほどのバンドが応募して、17バンドぐらいありました。恐ろしかったです。

 

―鳩間島は音楽が盛んですが、今でも音楽を続けている同級生の方とかいるのでしょうか。
1つ下の後輩に、やなわらばーがいて。同級生には、バンドの東京エスムジカがいます。彼女は同じクラスでした。音楽を続けている子は、結構いますよ。

●三線と高校生――――

―高校生の時には、楽器は何を?
ギター弾くか、あとボーカルだけとか・・・

 

―三線はやらなかった?
小学校2年生ぐらいから、ずっと三線は弾いてましたけど。バンドでは、三線は弾きませんでしたね。高校生で、三線を弾くライブっていうのはなかったんです。憧れもなかったし。その頃は、そんなに三線っていう感じでもなくて。

 

―その頃は、あまりビギンも沖縄な感じではなかったですよね?
そうそう。中学3年生のときにCMで「声のお守りください」っていうビギンの曲が使われていたんですけど・・・その当時の中学校長は、ビギンのマサルさんの親父さんでした。毎回CDが配られて、サインもしてあって(笑)うちに、そういうのがいっぱいあります。今とサインが違うでしょ(笑)

 

―それで高校は、ずっとバンドをやっていたんですか。
そうです。ずっとバンドをやっていて、仲良かったバンドの1人が上京することになって、初めの頃は一緒にやっていましたけどね。大学でも音楽は続けていたけど、ライブはしていなかった。曲とかを作ってました。

●歌いかたの正解――――

―その頃には、プロを意識するようになりました?
うーん、いや、まだちょっと歌う時期に来ていなかったんだと思います。結局、自分の歌って手本がないので、歌い方が分からなかったんですよ。

―ん?どういうことだろう?
自分のオリジナル曲って、どんなふうに歌えばいいのかが手本はないし、確立されてもいないし、さまよっていたんですよね。
たとえば、サザンオールスターにしてもミスターチルドレンにしても、桑田さんや桜井さんのような歌い方の手本がどこかあって、どうしても似たような歌い方や雰囲気を出そうとしますけど。
自分のオリジナル曲には、それがない。だからそういった意味では、どう歌うかと確立されていなかったんですよね。

 

―自分の中で正解を見つけられずにいた?
そういうことですね。それで、人前では歌えないなと。そろそろやってもいいかなと思って、友人からライブをやらないかと誘われたのが2008年でした。初アルバムは、2009年にできました。
仕事が早いので(笑)2008年の3月にライブをやって、9月にはアルバム作りに入って、若気の至りで勢いで作った!その勢いはアルバムの中に出てると思います。

 

―初アルバムは、急いで作った感じですか。
2009年の10月頭にリハーサル入り始めて、2週間おきに1回入ってました。12月頭の2日ぐらいで、超ハードに全9曲を録りました。1曲は親父の曲で、あとはオリジナル曲です。

 

―確立されてから作ったアルバムは、満足な出来栄えでした?
作ったときは、満足でした(笑)作品ができたっていうことが、素晴らしいじゃないですか。生きた証じゃないですけど。ただ今聴いてみると、結構ひどい。歌がひどいです。オケは、ちゃんとした人がミックスしてるので、完璧で言うことないぐらい普通に聞く分には何の問題もないです。
歌は、ピッチは悪いし、キーは確立されていなかったし。とりあえず、「これでやるか」という感じだったから。

●沖縄ポップスという定義――――

―沖縄ポップスについては?
沖縄ポップスというジャンルは、ビギンが確立したと思うんですけど。彼らは本当にすごいので、同じことをやらずに、新しい音楽を作ることを考えましたね。だから、初アルバムはビーチサウンドにしています。でも、島では評判悪くて(笑)島の人は三線やれ、なんで三線いれないのかって。
だけど僕の歌は、沖縄の歌というよりビーチサウンドにした。
この話はよくライブでもするんですけど、三線を弾くからって沖縄音楽と定義するのはおかしいと思うんですよ。ジャンベをいれたらアフリカ音楽でしょ、というわけでもないと思うし。
三線を入れたら沖縄音楽に限定するのは、少し違うかなと思って・・・だから、僕の作った「いちばんざくら」という曲は、三線が入ってなくても大丈夫だし、仕事を受けるときも、どちらでも受けます。

 

―それを踏まえて、今回のアルバム「波南(はな)」を作ったのでしょうか。
はい。沖縄には、花見という習慣が基本ないですけど、でも花見のない沖縄でこの曲を弾けば、沖縄っぽくも感じれると思います。

 

―どういうときに曲を作るんですか。パッと思いついて?それとも、こういうの作りたいとかってあって?
コンセプトはありますけど、イメージが湧けばすぐにできます。「いちばんざくら」は、2時間ぐらいでした。1番を作ってしまえば、あとはそれに沿って2番3番と作っていくやり方です。
例えば、サビの部分を作って次にAメロという感じですね。

 

―ライブでは2人ですが、バンドも考えていたりする?
考えてはいますけど、弦楽器だけでやってもいいのかなとも思っています。
ギターや三線、ウクレレとか。三線、ギターアコギ・エレキとか。ない音をそれぞれカバーするのも、アルフィーみたいですけど。ベース音もギターで出せば面白いじゃないって。

 


●ウクレレ、そして今後――――

―最近は、ウクレレも弾いているようですけど。
ハワイアンではないんで(笑)
沖縄音楽につかえるフレーズを探しているので、普通の人が弾くのとまた感じが違うと思います。結構、ウクレレと三線だけでも成り立ってしまうので、練習を踏まえて、人のライブに参戦するようにしています(笑)
一人で練習するより、聞き手がいてくれるほうがすごくイメージも湧くんですよね。

 

―鳩間島の音楽祭も、今後も続けられますか。
やっぱり、今後のことも考えていかなきゃいけないです。
出演者もビギンのマサルさんに声を掛けてもらったり、ほとんどボランティアでやってもらったり。
やり始めたのも、親父と自分なので。止めるのは簡単ですけど、続けるほうが難しい。親父が止めるって云えば、じゃあ俺も止めるってなりますけど。敷地の区切りとか、考えることもありますしね。

 

―今後については、いかがですか。
構、形になってきていると思うんですよ。人もついてきてくれてるし。
感動するいいものっていうか、一人一人に届く音楽をやりたいですね。ライブを面白くとか、コミカルにできるキャラでもないので(笑)自然と人が集まるような曲を作りたいです。
鳩間島の音楽祭がそうですけど、自然と人が集まってくる。あの音楽祭がそうあるように、何もしなくても自然と人が集まる歌であり、自分もそういう人でありたいですよね。心に届けば、自然とそうなるんじゃないかなと考えています。

 

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加治工さんの持つ音楽環境は、たしかに豊かだ。
そんな環境で生まれ育ったからこそ、沖縄音楽の域を超えようと考えたのかもしれない。
三線があってもなくても、沖縄音楽は沖縄音楽であって、三線があっても沖縄音楽ではない音楽がある。

つまり、音楽は自由、なのだ。
どこまでいっても、自由なのだ。
私たちがいつの間にか思い込んでしまった既成概念を、きっと彼が打ち壊してくれるに違いない。

 

<インタビュー:釣本忠勝/ライター:本輪のと>

 
 

 


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