島音interview ~禎 一馬~
By habu-connection On 24 9月, 2012 At 11:47 PM | Categorized As High Light, OKINAWAN MUSIC, 島音interview, 禎 一馬 | With 0 Comments

「ユイの島~徳之島~」がヒットし、徳之島の観光大使としても活躍されている禎一馬(てい かずま)さん。たくさんの人との出会いを楽しく語る禎さんに、音楽が始まった瞬間と人とのつながりを聞いた。

禎 一馬(てい かずま)
●プロフィール
1982年6月2日生まれ鹿児島県徳之島出身。
自身のオリジナル曲「ユイの島~徳之島~」が島内でヒットし、
2008年には徳之島観光大使に。
●公式Webサイト http://teikazuma.com/



◆インタビュー目次◆

 

 

●上京物語――――

―元々はテレビカメラマン志望で上京した、と聞いていますが。
高校時代から、ずっと自分の家庭用カメラを持ち歩いていて。中学生のときは、遊びで友だちと映画を作ったりして、映像で遊ぶのが好きだったんっすよ。

高校3年の卒業式のときは、2ヶ月ぐらい前から卒業式後に流すVTRを友達と、徳之島のケーブルテレビのテレビ局の機材を借りて編集とかして作り上げたんですよ。そのとき、ちょうどマラソン選手の高橋尚子さんが合宿に来てたから、メッセージをもらいに行きました(笑)

そういう遊びをしていたから、自分もそういう仕事を考えてたんですけど。そんときは、まったく音楽をやってなくて。

 

―中学高校生のときは、音楽をやっていなかった?
音楽は島でやってない・・・高校卒業するぐらいに、友だちとギターを弾いて遊んだりっていうのは、あったけど。

 

―いつから、音楽をやるようになったんですか。
上京して蒲田の専門学校で「放送メディア科」という、テレビ局を目指す人たちが通うところに入ったんですけど・・・あまりにも憧れだけできてしまって、ギャップというか。

完全に東京の人が恐くて、敵だと思ったんですよ(笑)4月に入学したのに、もう5月でホームシックになって(笑)学校に行っても面白くないじゃないですか、友だちもいないし。(笑)

そんなときに、ビギンさんがテレビで三線をもって歌っていて、それを観て三線の音色にこれはやばい、島を思い出す・・・ズコーンっときたんすよね(笑)

すぐにじぃちゃんに電話して、「うちにある三線送って!」って。とりあえず、弾けないながらも音が出てれば、それで良かった。ただそのとき寮だったんで、苦情がくるでしょ(笑)

練習場所を探して、多摩川とか川崎駅前の端っこでやってたら、三線の音色にひかれて沖縄の人とか徳之島の人がきたんですよね。ホームシックなんて、やっているうちに島の人に出会えたらなくなっちゃって。島の誰かに出会いたいがために、毎日路上に出るようになった(笑)

そしたら一曲覚え、二曲覚えってなって。そっちが大事になってきたんすよ。

 

―もともとは、おじいさんだけが三線を弾いていたんですか。
じぃちゃんだけで。だいたい一家にひとつは、三線があるじゃないですか。お祝いのときに、家の人が弾けなくても置いてあれば、集まったとき誰かが弾けるっていう。

それで、唄遊びが始まる。ただ、じぃちゃんは酔っぱらったときだけ弾きよるんです。島では、それを聴いてても何とも思わんかった。

でも東京に出てきて、三線を聴いたら「なんて素晴らしいんだろう」って思って、でも島にずっと居たら思わなかった(笑)僕は東京で沖縄のビギンさんから始まって、沖縄の「安里屋ゆんた」の曲から始めたんです。

 

―島にいた頃は、どんな音楽を聴いていたんですか。
普通のポップス、ゆずとか。でもそれこそ高3の頃に、川畑アキラさんがコブラツイスターズでCDを出して。それで聴いたら、おお格好いい!って。大ファンになりました。

東京で路上ライブをやっているときに、三線を持っている人が歩いていて、パッとみたら川畑アキラさんがいたんですよ!追いかけて、「俺、徳之島出身なんです。高校生の頃から大ファンで」って言ったら、アキラさんが「そうなんだ!」と言ってくれて。

二人で戻って、一緒にライブした(笑)そこから仲良くなって、いまだにちょくちょく連絡とっています(笑)また11月に大阪で一緒にやるんで。

 

 

●物産展から始まるライブ――――

―ライブを始めたきっかけとかありますか。
初めてのライブは、新宿の沖縄物産展だったんです。まだ数曲しかできなかったんですけど、沖縄の料理屋さんで隣で飲んでいる人が物産展の主催者だったんですよ。酒の勢いで仲良くなって、「この日は空いている?うちの物産展のステージでやってよ」って言われたんで「いいですよ」(笑)冗談で言われたと思ったんですよ。

そしたら、本当に電話がかかってきて「○時に来てね」って。一人じゃ不安だったんで、高校の同級生を誘って、そいつの彼女がピアノを弾けると。でも僕は歌に自信がないから、歌がうまい女の子と合わせて4人で『ニライカナイ』っていう島唄バンドを即興で結成したんです。それで物産展のステージ第一部を僕らがやって、第二部はまだ無名の頃の夏川りみさんでした(笑)

涙そうそうをやっている人だって知っていたから「涙そうそう、やっている人ですよね?」って声かけたんです。そのとき、りみさんに楽屋で「安里屋ゆんた」の曲を教えたりして。

 

―初めは物産展でライブでしたが、そこからライブをするようになったんですか。
そこから、ニライカナイとして活動したんですよ。物産展のときは寄せ集めでやって、練習もしていないから、本当にボロボロで悔しくて。そのあと中野駅の商店街で、路上ライブをしたら意外とウケて、それでちょっとリベンジしたいなという話になって。

物産展の音響の与那さんがライブハウスをいくつも立ち上げてる人で、新大久保に今でもある「ヴォイス」っていうライブハウスの立ち上げのときに、ニライカナイで初めてワンマンライブをやって、島の人がいっぱい来てくれました。そんで郷友会とかに、引っ張りだこになったんすよ。

そこから、だんだんと僕は映像から音楽の道に変わっていったけど、みんなは趣味としてやっていて。集まりづらくなってしまって、結局、自分ひとりでやるようになっていって今に至る(笑)

 

―オリジナル曲は、いつぐらいから作り始めたんですか。
ひとりでやり始めて、新宿の路上で仲良くなったギタリストがいて、その人とふたりでやるようになったんですよ。その人と一緒に、初めてライブハウスでやることになったとき、まだ全然オリジナル曲がなかったので、「せっかくだから、1曲でもオリジナル曲をやろう」となって。そのときに「月見草」って曲を作りました。

それが当日まで歌詞が出来てなくて、リハが終わった後に向かいのモスバーガーで一生懸命書いて、当日うたったんですよ(笑)それをきっかけに、オリジナル曲を持たなきゃいけないと(笑)

そんときの対バンが、中村中さん(笑)ちょっと変わった女の人がいるなーって。当時、薔薇の花を持って有名な「友達の詩」を歌ってましたね。しばらくして、テレビで見かけて「あれっ?」って驚きました(笑)

 

 

●自称で始まった徳之島観光大使――――

―いつから、徳之島の観光大使になったんですか。
東京に出てから、毎年かならず夏には帰ってたんですけど。そんとき思ったのが、徳之島の船着き場に徳之島の観光パンフレットを見つけるじゃないですか。こんな観光客がいない島で、島においても誰が持っていくんだろう?と思ったんすよ。

で、路上ライブをやっているから宣伝できるかなと思って、東京で僕が配るために徳之島の観光協会に電話して、「パンフレット配るんで送ってください」って言ったら、段ボールを超いっぱい送ってきたので・・・こんなにいらないな、と(笑)

そこから、路上ライブのときに“自称観光大使”ということで、「みなさん、徳之島を知っていますか~?」て言いながら配ってました。

 

―それで、本当に“観光大使”になれたんですか。
はい。でもそのときは、観光大使になろうとか考えていなくって。

6年ぐらい前に、島で初めてライブをしたときに徳之島の観光大使を調べたら、今までいなかったんですよ。徳之島内で町ごとではいたんですけど、徳之島としてはいなくって。で、ライブに3つの町の町長を招待したんです。

ちょうど「ユイの島~徳之島~」っていう徳之島PRソングが、ちょっと島の中でヒットしてたし、だから700人のお客様の前で、「東京で路上ライブをしながら、観光パンフレットを自称観光大使として配ってるんですけど、徳之島の観光大使は自分でどうですかねー。町長、どうですかー?」(笑)

やっぱり、町長は徳之島をこれだけPRして、うん、と言わないわけにはいかない(笑)

そこからトントン拍子で、作戦勝ちですよね(笑)それで、観光大使第一号として闘牛大会のまえに任命式を闘牛場でやってくれて(笑)

今は、もう第十何代までになってますけど、第二代目は藤波辰爾さんでしたよ。

 

―「ユイの島~徳之島~」は、どれくらい前に作られたんですか。島唄調ではないですけど、色々な要素が消化されていますよね。
あれは結構はやかったすね・・・7年前ぐらいかな。

徳之島には、「ワイド節」っていう奄美の人が作った民謡があるんですけど。島では、テーマソングみたいなもので、必ず祭りの締めには流れるし、結婚式でも流して踊ったりするし。今まで、徳之島の人がオリジナルの徳之島の事を歌った曲を作ったことがなかったんですよ。

「ユイの島~徳之島~」の曲は、まず幼稚園児とかの子どもたちが食いついたんです。

CDを出したら、子どもが車で聴きたがって、親は耳から離れなくなって親も巻き込める(笑)

今は、高校の体育祭の全校ダンスみたいなので踊ってたり、小学校では合唱コンクールで歌ってもらえたり(笑)高校での授業でエイサーがあるんですけど、それに使ってくれたり、空港の荷物の受取所で流れてたりして、そういうのがすごく嬉しいし。

都会の人に向けて作った曲だったんですけど、逆に島の人に気に入ってもらえて。それは、それでいいのかな。軽い感じの南国調だし、きっと島唄調だったら若い人にとっつきにくいだろうから、それが良かったのかもしれないです。でも、三線も入っているし。

ただ、これから全国区向けの曲を作りたいんだけど、次に続く曲をちょっと悩んでいるんですよね(笑)

 

―音楽で、一番影響を受けたのは誰だったんですか?
よく聴いていたのは、ゆずなんですけど。ただ、音楽的に島唄ポップスとして影響を受けたのは、喜納昌吉さんだったりとか、コブラツイスターズとか。

喜納さんは、お手伝いをしていたこともあって。というのも、東京にでて島の同級生と喜納さんのコンサートに行ったら、三線を使ったフルバンドにすげぇな!ってめっちゃ感動して。スタッフに話しかけて仲良くなって、それから喜納さんの手伝いをするようになったんです。

喜納さんって沖縄では色々云われたりしているけど、でも僕らは素の顔を知っているから、すごく勉強家ですごく芯があるから何を言われても、ブレがないんですよ。

だから、喜納さんの近くで喜納さんの音楽を聴いてたから、影響は受けてますね。

 

―オリジナル曲の中でとくに「人の畑」は、異色でメッセージ性が強いように思いますが。
その頃、僕も反戦運動とかを喜納さんのつながりで東京とかでやっていたので、そのときに、僕もよくよく戦争のこととか考えてみたんです。

本とか読んで、平和の活動や政治的なことも勉強して。だけど、やっぱり対岸の火事だったんですよ、沖縄のこと。鹿児島県だから基地があるわけでもないし・・・そしたら、3年前に徳之島に普天間基地を移転するって話が出て。

そこで自分のこととして、初めて考えたんです。島では反対する人が圧倒的に多かったけど、賛成する人もいて・・・でも基地ができる場所には、じぃちゃんの畑が昔からあったんで。そのときに考えたのは、当時の首相が勝手なことばかり言うから、それに振り回されてしまう島の人たちがいて、島の雰囲気がどんどん悪くなってしまったんですよね。

当時の首相が切羽詰って、徳之島の住民を説得するために来るっていう話があったときは、徳之島の住民は空港を封鎖して、空港に続く道をトラクターと牛で封鎖して、首相が来たらハブ投げるって(笑)そんぐらい加熱してて、それで「人の畑」を作ったんですよね。

いまは別の意味で、原発のこととかを考えて歌ってますね。

 

 

●トライアスロンと音楽――――

―徳之島には、トライアスロンがありますよね。
トライアスロンは、もう25年ぐらい前からあるんですよ。最初のうちは、島の人たちしか出てなかった。工事用のヘルメット被って、ママチャリに乗って、ライフジャケット着て泳いでいたらしくって(笑)

トライアスロンを島で始めた当時の町長も、第一回目から今も参加してずっと完走してますよ。4~5年前ぐらいから、家族でチームを組んで参加しました。チーム名「禎カロリー」って命名して(笑)

 

―トライアスロンを始めたんですね!
今年は、初めて一人で参加したんですけど。やっぱり自分が観光大使を務めてて、ミュージシャンをやっていて、島の大家に参加するのが一番いいなって。島外から何百人と参加があって、大会が終わった後にライブをして盛り上げるってことは意義がある。

古代眞琴さんっていう人がいるんですけど、シンガーソングランナーって言われているんですよ。

トライアスロンの招待選手は学校に遊びに来てくれるんですけど、その交流会を仕切って歌っているのが古代さんだったので、毎年来ている歌のお兄さんっていう感じで見ていて。

古代さんとは、たまたま東京で出会ったんですよ。

 

―すごいめぐり合わせですね!
勉強のために見に行ったバンドのボーカルが古代さんだった(笑)

楽屋に挨拶に行って、それで一緒にライブをやるようになった。

古代さんは、トライアスロン大会後のライブをずっとやっていたから、4年ぐらい前に「一馬、一緒にやるか」って声かけてくれて、「行きます!」って言ったら、「トライアスロンに参加はしろよ」って言われたんで、参加するようになったんです(笑)

しかも、トライアスロン大会後の小学校での交流会も僕が出るようになって、今じゃ自分が歌のおにいさんの立場になっちゃったんで(笑)だからその子供たちが将来、音楽やりたい、トライアスロンをやりたいって思うかもしれないし、受け継がれてるって感じがすごいするんですよ。

音楽で出会った古代さんのおかげでトライアスロンを始めて、トライアスロン仲間から音楽に繋がっていって、ほんと出会いが広がっていく感じで面白いですね。

だから、音楽とスポーツを極めていきたいかな。

 

 

●夢は島のおもてなし――――

―音楽をやっている人で、スポーツと音楽を混ぜようとする人は初めて聞きました(笑)トライアスロンも盛り上がってきているんですね。
徳之島ではトライアスロン大会の閉会式終了後に、“どんちゃんパーティー”っていうのがあるんですね。アサヒビールさんが協賛で、ビールが飲み放題。飲みながら食べながら、音楽聴いて最後にはみんなステージに上がってくる。それがあるから徳之島のトライアスロンに来るって感じなんで。

トライアスロンの専門誌で「Triathlon LUMINA」っていうのがあるんですけど、そこのアンケートでは参加したい大会2位だったんですよ。

徳之島は、世界遺産にも推薦されていたりしてます。

いつか島に帰るつもりなんで、将来は島でペンションをやりたいんです。いまは東京とか大阪に、音楽でつながっている人たちがいるので、島に来てくれたら島のおもてなしをして、そこでライブをやる。それで楽しんでくれたら(笑)

 

―直近の目標は?
有名になることですね。有名にならないと、結局、看板にならないじゃないですか。

“禎一馬”をPRしつつ、ああいう歌を歌って“徳之島”をPRしていく。そこを大事にしていきたいんすよね。あと、今年来年ぐらい30歳のうちにCDやアルバムを作りたい。ワンマンライブを東京・大阪・徳之島でやって、その中で「ユイの島~徳之島~」に続く曲を入れたいっすね。

島の人にカラオケに入れてって言われるんで、それも目標にしていますね。

 

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たくさんの人々と交流を持ち、それを気取らずに謙虚な姿勢で話をしてくれた禎一馬さん。彼が東京に出て孤独を味わったからこそ、人とのつながりを大事にし、またそんな彼に集う人たちがいる。なにより彼が大事に思うのは、生まれ育った徳之島だ。

誰しもが一人では生きていけないと分かったとき、離れた故郷を、家族を、支えてくれる誰かに初めて気づくことができるのは、彼だけではないだろう。
彼の歌を聴けば、ただひたすらと力強く生きることに勇気づけられる。その真っ直ぐな思いを歌にできるのが、禎一馬なのだ。

 

<インタビュー:釣本忠勝/ライター:本輪のと>

 


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