●灰谷健次郎(1934~2006)児童文学作家 </>
ここに一冊の本がある。
灰谷健次郎が、本土復帰前の沖縄を放浪したことは有名な話だ。
彼が沖縄で一体何を見て、何を聞いて、何を思ったのか。
それは、この『太陽の子』を読んでみれば分かる。
沖縄の碧い海、白い砂、大きな花。
そして、その下に眠るたくさんの哀しいことや苦しい沖縄を、私たちは知っている。
けれどもこの本を読んでみると、そんな知識が少しも役に立たないことを思い知らされてしまう。
本の舞台は、戦後から30年経った神戸にある沖縄料理屋さんだ。
料理屋を営む沖縄出身の両親を持つ12歳の女の子ふうちゃんと、沖縄出身の常連さんたち、
ふうちゃんが出会ったキヨシ少年のお話。
本書を読んでいえるのは、沖縄を知るということは何なのか、ということだ。
ふうちゃんは、大好きな人たちの“本当”を知るために沖縄での戦争を学んでいく。
そして、沖縄の人々が戦後どのように過ごさねばならなかったのか。
読み手の私たちは、心が詰まる思いになる。
『太陽の子』には、灰谷健次郎が見た沖縄、知った沖縄が描かれているのだ。
本書の中に、こんな一節がある。※
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法の前に沖縄もクソもないと言った。
そのことを心から望んでいるのが、沖縄の人間だ。
・・・(中略)あんたの人生がかけがえのないように、
この子の人生もまたかけがえがないんだ。
ひとを愛するということは、知らない人生を知るということだ。
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私たちは、沖縄を愛していると言う。
まるで楽園のような、ゆるやかで穏やかなあの時間に非日常を感じたりする。
なぜ、沖縄の人たちがこんなにも温かいのか。
なぜ、こんなにも強く優しくなれるのか。
沖縄の碧い海、白い砂、大きな花。
素敵な沖縄時間。
哀しみがそばにある人たちにとって、ゆるやかに流れる時間がきっと、
とても愛おしいもので、かけがえのないものなのだ。
私たちは、大いに沖縄を知ろうではないか。
哀しみや苦しみを知ることは、とても怖くて辛いけれど、
それでも、その哀しみの沖縄すらも愛する私たちであろう。
苦しいからこそ、哀しみを分かち合える私たちでありたい。
もしかしたら、灰谷健次郎はそう伝えたかったのではないだろうか。
※本文のまま引用せず、概略して記載しています。